万博の目玉、マンモス公開

来年3月から開催される2005年日本国際博覧会愛知万博)で展示が予定されているマンモスの頭部写真が27日、初公開された。頭部は2002年、ロシア・サハ共和国北部の永久凍土地帯で発見、発掘され、現地の研究所で冷凍保管中。1万年以上前のものと推定され、地中に埋まっているとみられる胴体部分とともに、展示の目玉となる見込みだ

愛知県神田知事、万博、観光客誘致の為中国・韓国を訪問

神田真秋知事は、5月27日から8日間の日程で中国と韓国を訪問する。愛・地球博PRと観光客誘致が目的。17日の記者会見で「万博訪問客の主力はアジア。中国、韓国から多くの人に来てもらえるようPRしたい」と述べるなど、トップセールスに意欲を見せている。
 知事は6月1日まで上海、北京の順で中国を訪問し、旅行業者や報道機関を対象に万博の内容を説明する。上海では10年に万博が開かれることから、主催者との交流も予定している。北京では博覧会国際事務局の呉建民議長と会談。ソウル滞在中も、旅行業者などに万博の売り込みを図る。

 <EXPO STEP・万博から始める第一歩>
 ◇失われた「日本の世紀」−−経済成長の終焉気付かず
 大阪万博開幕に向け、仕上げ工事が進む会場の千里丘陵。アルミニウムとガラス、鉄で作られた無秩序な建物群が並ぶ光景を、米誌「TIME」は「巨人のおもちゃ箱のようだ」と描いた。
 同誌の70年3月2日の万博特集号。特集の題名は「EXPO70で力を示す日本」。冒頭の記事の見出しは「日本の世紀へ」だった。
 記事は、日本の国民総生産(GNP)が67年に英国、68年にフランス、69年に西ドイツを抜き去ったことに言及。今や米国の9320億ドル、ソ連の6000億ドルに次ぐ地位にあり、70年には2000億ドルに達すると記した。その上で、未来学者、ハーマン・カーン氏の言葉を紹介する。「日本は世界で最も向上心が強い。21世紀は、日本の世紀になるだろう」
 同日発行の米誌「ニューズ・ウィーク」も万博特集を組んだ。「日本は今や全世界で経済的優位に立つため、米国、ソ連に挑戦している」
 バブル当時の日本脅威論を思わせる論調。日本経済は、88年末に東証の平均株価が初めて3万円の大台を突破するなど伸長を続けたが、90年代に入り、坂道を転げ落ちる。日本の世紀は、失われた。
   ◇   ◇
 政府の経済財政諮問会議メンバーを務める吉川洋東京大教授(52)は「高度経済成長の終焉(しゅうえん)が日本経済の最大のターニングポイントだったが、転換がうまくいかなかった」と指摘する。
 60年代の実質経済成長率は年平均10・7%。高度成長の前と後で、日本人の生活は一変する。
 「高度成長前の生活は、今の若い人には思い浮かばないでしょう。何も無かったんだから。まずテレビがない。電灯は裸電球。電話もない、洗濯機もない、冷蔵庫もない。だから高度成長の時には『何が欲しいか』なんて質問自体が愚問だった」
 吉川教授によれば、高度成長の終焉は60年代の終わり。テレビや洗濯機といった生活家電が普及し、需要が一段落したことが原因だった。この時「本当に何が必要かが、改めて問われていた」という。まさに70年がターニングポイント。高度成長をうたった祭典、大阪万博は、人々は意識しなかったが、一つの時代の終わりをも告げていたのだろう。
 「その後の日本に戦略がなかったわけでない。政府がやろうとしたのは国内リゾート開発と東京のフィナンシャルセンター化だ」と吉川教授。
 対米経済摩擦が激化し、政府は内需拡大を迫られた。そこで“内需”の落とし先にしようと国内各地でリゾート建設を進める。一方、経済は一流を自負するだけに、東京市場を、ニューヨーク、ロンドンに次ぐ国際金融市場にしようと夢見た。どちらも失敗に終わった。
 「今も課題として残る、住宅・通勤など日常生活の問題は、当時すでに指摘されていた。日常生活の充実とリゾート開発と、どちらを優先すべきかは明らかだったのに……」
   ◇   ◇
 東京・日本橋。3月末にブランド服や輸入雑貨店が入居する商業施設「COREDO(コレド)日本橋」がオープンした。家族連れや若者の姿も目立つようになり、サラリーマンの街のイメージを変えつつある。
 コレドのすぐ北に、全国の道路の起点「日本橋」が架かる。しかし、この国の重要文化財よりも、橋の真上を走る首都高速道路に掲げられた「日本橋」の看板のほうが印象的だ。まるで、高速道が日本橋であるかのように映る。
 「広重の浮世絵で有名だから、外国人も観光で日本橋を見に行くけど、皆、がっかりしちゃう。ある米国人は『こんな所に高速を通すなんて国辱ものだ』って怒ってた」と、経済評論家の神崎倫一氏(78)は笑う。
 首都高速は、64年の東京五輪までの完成が至上命令だった。土地収用の必要がない川の上は、格好の高速“用地”。景観は二の次とされた。
 神崎氏は、戦後ポーランドワルシャワ復興と比較する。
 「ワルシャワは戦争で完膚なきまでに破壊された。戦後、ショパンの歩いた街を復活させようと言って、19世紀の街並みを再現した。今では、中部ヨーロッパの有力な観光資源ですよ」
 彼我の文化の差。太平洋岸の原風景、“白砂青松”の景勝地も、軒並み工場地帯に変貌(ぼう)した。「日本人が生きている限り、成長が続くと信じていた」と神崎氏。成長信仰によって失われるものの大きさは隠された。
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 「TIME」の万博特集号は、当時の日本の国家指導者の声も取り上げた。その中で、後に首相となる宮沢喜一通産相は、自嘲(じちょう)してみせている。
 「我々は、台所の流しを含め、何もかも売ってきた。我々自身のためには、何も残さなかった」と。
 ◇入場者数
 愛・地球博の目標入場者数は1500万人。「35年ぶりの本格的万国博」を掲げながら、博覧会史上最多の6421万人を集めた70年の大阪万博はともかく、85年のつくば科学博の2033万人、90年の大阪花博の2312万人という結果と比べ、低い目標値だ。
 これは、会場予定地の変更が影響した。
 愛知県瀬戸市海上(かいしょ)の森を開発する当初の構想では、650ヘクタールの会場に計4000万人を集める計画だった。
 これに対し、環境に配慮を求める声が起き、540ヘクタール・2500万人に計画は縮小。さらに海上の森オオタカが発見されるに及び、旧愛知青少年公園の158ヘクタールをメーン会場に変更し、海上地区は15ヘクタールに限定。会場の容量から、入場者数も下方修正された。